日本で『死』について考えることが避けられる理由。《死生観と死穢観》

死を考えることを避ける

 どうでしょうか?

 振り返ってみて覚えはないでしょうか?


 日本では死について考える事。

 死に触れる事を極端に嫌う傾向にあります。


 具体的に言うなら、

◎、介護施設でご利用者が亡くなった時、その姿を他のご利用者に見せない。


◎、ご利用者本人が元気な時に、どのように死にたいかの話し合いを避ける。

等々。


 例は介護施設での話をしましたが、貴方が介護に関係ない人だとしても、

「今から親子でどのように死にたいのか話し合って決めて下さい」

と言われて出来ますか?


「”お父さん、お母さん。今からどのように死にたいか話し合おう”なんて言ったら怒られちゃいますよ」

と思いませんか?


 実はこのように死について考える事を避ける傾向にあるのは日本に存在する独特な考え方が原因なんです。




日本独特の死穢観

<死穢観とは?>

 日本には死穢(しえ)観という考え方があります。

 読んで字のごとくですが、

 死を穢れと捉える考え方です。


 穢れ(けがれ)とは、忌み嫌う存在のことです。

 日本では長く、疫病や不幸の原因と考えられてきました。


 それをもたらすのが死だけではなく、死に関連する血です。

 そのため、死や血は不浄な存在で、極力触れてはいけない、避けなければならない存在。


 死穢観とは

『死は忌み嫌うべき存在であり、触れてはいけない』

との考え方です。


 日本の男尊女卑もここから来ていますよね。 女性は月経で血(穢れ)を体から定期的に出す存在と言う事です。 



<日本で死穢観が発生した理由>

 日本で死穢観が発生した理由は天皇制にあります。

 世界的に見ても天皇と言う存在はとても特殊な存在です。


 今でこそ

《日本と言う国の象徴》 

とされていますが、それは第二次世界大戦後の話です。


 それまでは日本で天皇とは神様だったんですね。

 更に詳しく

《天皇とは?》

について興味があればこちらをお読みください。


 神であり、神事を行う天皇は、神事を滞りなく行うために常に最も清い存在じゃなければならないとされました。


 天皇は穢れてはいけないわけです。

 先ほども言いましたが、疫病や不幸の原因が穢れ(=死や血)だからです。


 神事を行う神が疫病や不幸に触れ、それを撒き散らしてはいけませんよね?


 現在ではかなり

「勝手な考え方だなぁ」

と思うかもしれませんが、これは平安時代から発生し、今まで続く概念ですからね。


 それはともかく、こうして日本独特の天皇という存在と穢れという関係性から死穢観が発生したと言われます。




死穢観と死生観

<死生観とは?>

 死穢観について触れてきましたが、死穢観よりも死生観の方が馴染みがあると思います。


 死生観とは、生死について考える事や生死についての考え方のことです。


「人って死んだらどうなるんだろう?」

「天国って本当にあるのかな?」

「人が死ぬとはどういう事なんだろう?」

等々について考える事。


 これが死生観です。



<死生観を阻害する死穢観>

 死について考える事はとても大切なことです。

 死について考えることで、生についての考えも深まります。


 そのため、

「究極的な教育は、最終的に死生観に行きつく」

と主張している人もいるくらいです。


 しかし、日本には古くからの死穢観があります。

 これらの死と向き合う死生観を避ける考え方ですよね。


 そのため、日本では死生観をタブーと捉える傾向にあります。

 それが最初に言ったような


 介護施設で亡くなったご利用者の姿を他のご利用者に見せない。

 死に方についてキチンと話し合えない。

等となって現れているわけです。




介護現場における死生観の必要性

<介護職員は死生観を持つべき>

 この死穢観が良い、悪いと言っているわけではありません。

 徹底的に穢れを避け続けるのも良いと思います。


 ただし、死生観。

《生き死にについて真正面から真剣に向き合う》

これは介護職員はしておくべき事だと思います。


 何故か?

 介護職員が死生観を持たず、穢れとして避け続けていた場合、こんな場面に遭遇したらどうしますか?


 ご利用者が

「もう死んでしまいたい」

又は

「死ぬのが怖いよ。助けて」

等と貴方に泣きながら訴えかけてきたとします。


 どうしますか?



<介護職員に死生観がないとどうなる?>

 そんな真剣な訴えに対して貴方はどのように言葉を掛けますか?

 実際に私が知っている声掛け例を言います。


「そんなこと言わないで。悲しくなっちゃう」

「私は生きていて欲しいと思いますよ。」

とか

「・・・そんなことを言われても困っちゃいます。」

とか

「ご自由にどうぞ。でも私を巻きこまないで下さい」

「どうせそんな事を言っている人ほど長生きするんですから」

とか。


 立ち位置は三者三様ですが、全部キチンと真正面から向き合えているとは言えません。


 生死と向き合っていると言うよりも、感覚で捉えているか、そもそも避けている感じです。


 これで今ご利用者の心を支配している死の不安や恐怖をどうにか出来ますか?


「そんなレベルの話は介護の領域を超えているよ」

と言う人がいます。


「『人の命を預かっている』と普段から豪語しており、ターミナルケア・看取りまで仕事にしている者がそれを言いますか?」

と私は思います。


 むしろ、人の終わりに携わる仕事である介護職員が

「死と向き合うのは自分達の領域じゃないです」

と言ってしまったら、ご利用者はとても不幸ですよね。


 自分の人生最後は穢れとして終わる事になるからです。

 これは触れてはいけない穢れとして扱われてしまうのと同じだからです。


 だから介護職員が

「死生観なんて介護の領域じゃない」

と切り捨ててしまうとご利用者はとても不幸だと私は思います。




最後に

 死穢観のある日本でいきなり

「死生観は大事です!学んで下さい」

と言われても何から始めて良いのか分からないと思います。


 そんな時には、難しい死生観の本から入るのではなく、死に触れる作品に触れて、自分の感じたことを文字にする。

 言葉にする。

 このようなことから始めれば良いと思います。


 貴方が映画やドラマ好きなら、映画やドラマ。

 マンガやゲームが好きなら、マンガやゲームでも良いと思います。


 私が初めて死生観として考えさせられた作品はうしおととらというマンガです。

 10巻の《愚か者は宴に集う》という話。

「死は恐れるものである。

 しかし、昔から笑って自ら死を選んでいく人間がいた。

 あれは一体何なんだ?」

と疑問を持ち探究し続けている妖怪の話です。


 死は必ずしも畏怖し、避けるべき存在とは限らない。

 ではそこにあるモノは何か?

 これも立派な死生観ですよね。


 うしおととらと言う作品で出した答えは

「泥なんか何さ」

です。

 その意味に興味がある貴方は是非一読下さい。


「マンガはちょっと」

と言う貴方には

《電池が切れるまで》

と言う詩集をオススメします。

 命の危機と闘いながら通う病院内学校の生徒達が書いた詩集です。

 そんな中で最も有名な

《電池がきれるまで》

と言う題名の詩からこのタイトルになっています。


 これはドラマにもなっていますので、本が苦手な貴方はドラマから死生観に触れるのも良いと思います。


 まずはそのような所から、死生観を意識して触れるところから始めてみてはいかがでしょうか?


 そして、ご利用者の死とも真正面から向き合える介護職員を目指してみませんか?



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