介護職員の死生観。「何で死んではいけないの?」死とは本当に悪いことなの?何が悪いことなの?

「もう死んでしまいたい」

<介護職員の対応>

 施設の介護職員でこの言葉をご利用者から聞いたことがない人なんていないと思います。

 そのくらい施設のご利用者は

「死んでしまいたい」

と気分が落ち込むことがよくあります。


 そんな時に貴方はどうしていますか?

 どのような態度をしていますか?

 どのような言葉を掛けていますか?


「そんなこと言わないで」

「私が悲しくなってしまう」

「はい、そうですね」

「そのように思うこともありますよね」

「辛いですよね。わかりますよ」

概ねこんな感じでしょうかね。


 後は他の話を振って、忘れてもらうなんて手段もありますかね?


 これらは全部適切とは言い切れません。

 何故なら、全部本人の気持ちを受容していないからです。


 私が悲しいのは、本人の落ちた気持ちには関係ありません。

 その文言は自ら命を絶とうとしている人に向ける言葉ですね。


 その他は受容どころか、傾聴もしていませんね。



<介護職員が死生観を持つ意味>

 ではどうしたら良いのでしょうか?

 人の生死に関わる仕事ですので、この事に対して適切な態度が出来たら素晴らしいですね。


 実は、この言葉に対して適切に対応する方法はあります。

 それは、介護職員が様々な死生観を持つことです。


 死生観とは何か?

 簡単に言うと生死に関する見方、考え方のことです。


 つまり、ご利用者からの

「もう死んでしまいたい」

に適切に対応するためには、貴方自身が生死に関して様々な考え方を持っている必要があると言うことです。


 今回はそんな死生観の中でも特に深く考えられている考え方をご紹介します。

 なお、本記事の内容はこちらの本を基に作成しています。

死とは何か

 私なりに出来るだけ簡単に崩して紹介するつもりですが、それでも正直かなり難しいです。


 しかし、これを理解出来れば他の死生観はほぼ理解出来ると思います。

 一緒に死生観の世界に入って行きましょう!




死とは本当に悪いことなのか?

<何故死んではいけない?>

 子供や自ら命を絶とうと考えている人からはこんな言葉が出てきます。

「何で死んではいけないの?」

と。


 貴方は何でだと思いますか?

 何故人は死んではいけないのですか?


 これを考えていく前にまずは、死は悪くないと考える人達の考えを見ていきましょう!



<「死は悪くない」との考え方>

 これは自ら命を絶つ人達や安楽死等を擁護する考え方ではありませんので、最初に言っておきます。


 死生観として深く考えることにより、

「死は悪くはない」

と考える人達もいます。


 その根拠はそれなりに納得出来る内容です。


 本人にとって悪い事と言うのは、本人が生きて、存在している時に発生するから悪と感じて認識出来ます。


 しかし、死は本人が亡くなるのと同時に訪れます。

と言うことは、死の悪い部分が訪れるのも亡くなるのと同時です。


 そのため、実は既に亡くなって何も感じない本人にとって悪いことなんて何もありません。

 だって亡くなっているのですから。


 このように悪い事の訪れる時点を具体的・明確に考えていくと、死とは本人にとっては悪ではないとの考えに至る。

 もちろん、何も感じないので善でもありません。

 それこそ昔から言われている無ですね。


 ここから死後の世界の有無を考えると形而上学と言う別の、もっと複雑な話になるのでここではこのくらいにしておきます。


 このような主張です。

 これはこれで一つキチンとした死生観として有りな気がしてきます。


 しかし、言葉には表せないけれど、違和感は残ります。



<生物としての素直な本質>

 正直私もこの事に対して適切に表現できる言葉が見つかりません。


 ただ、ほとんどの人は感覚的に

「死ぬことはいけない」

と思っています。


 恐らくその感覚は生物としての本能と呼べる部分からくる、素直な本質なんだと思います。


 ここではその生物としての素直な本質には従うように物事を考えていきます。


 生物としての素直な本質が

「死ぬことはいけないことだよ」

と訴えかけてくるなら、それに従い、

《死とは悪である》

と仮定しましょう。




死の何が悪いの?

 死が悪い事だと仮定して、では具体的に死の何が悪いことなのでしょうか?


 様々な意見があると思いますので、各個見ていきましょう。



<痛い・苦しい>

「死ぬ時に痛いし、苦しい」

だから悪いと言う意見ですね。


 では、手術中に麻酔量を間違われて、昏睡状態の中、眠るように亡くなるのは悪ではないですね?


 だって、死ぬ時の痛みや苦しみは一切ありませんよ。


 そのため、痛みや苦しみがあることが死特有の悪とは言えない気がしますね。



<永遠の別れになるから悪>

「死んだらもう皆と会えなくなるから、永遠の別れになるから悪」


 なるほど、これも有りな気がします。

 しかし、実はこれにも違和感が残る状態があります。


 例えば、

 人間の冷凍保存技術が確立された世の中だとします。

 貴方と親しい友人が冷凍保存により200年後に復帰する状態で、宇宙船で宇宙に飛び出します。

 その目的は他惑星への人類移住計画の先遣隊。


 これは永遠の別れだと言えますね?

 200年間友人は冷凍状態、貴方は200年も生きていられませんからね。


 確かに悲しいです。

 この時の悲しみを覚えておいて下さい。


 では、同じ状態で、友人が宇宙船で飛び立ちました。

 しかし、打ち上げ事故が発生し、貴方の目の前で友人の乗った宇宙船が大爆発。

 乗組員は全員即死しました。

 これも同じ永遠の別れですね。


 貴方の素直な本質は何と言っていますか?

 どちらも全く同じ永遠の別れです。

 同じ永遠の別れですから、悲しみの度合も全く同じだと訴えていますか?


 私の素直な本質部分は

「宇宙船の爆発によって永遠の別れになった方がショックが大きい」

と言っているような気がしますが。


 もしも貴方も私の素直な本質と同じなら、これもやはり、永遠の別れと言う部分だけが死特有の悪の部分とは言えない気がします。



<残された周囲が悲しむから悪>

 そうなるとあとはこれですね!

「貴方が死ぬと私が悲しい!」

に代表される、

《残された周囲に悲しみが広がるから悪》

と言う考え方。


 この考え方にも少し違和感が残ります。

 本人が亡くなったら何故周囲は悲しむのでしょうか?

 それは永遠に会えなくなるからですか?


 しかし、それは本質的に死特有の悪ではないと先程宇宙船の例で見ましたよね?


 では周囲は死特有の何に対して悲しみを持つのでしょうか?


 それは恐らく、亡くなった本人に死特有の悪となることが振りかかったと感じるからではないでしょうか?


 いわゆる同情とか貰い泣きというやつですね。

 とすると、周囲の人達が悲しむこと自体が死特有の悪ではないことがわかります。


 だって、周囲の人達は死特有の悪によって泣いているのではなく、死特有の悪を亡くなった本人が被っていることを想像して悲しんでいるのですから。


 つまり周囲の人達が悲しむのは、死から派生する間接的な悪い部分です。

 死特有の本質的な悪の部分ではないと言えます。


 さて、これも違和感が残る結果となってしまいました。

 そろそろ行き詰ってきましたね。


 そこで、

「次こそは!」

と言うことで、現時点では一番シックリきそうな考え方を見ていきましょう!




将来の可能性を奪われるから悪

<今までのこと全部に説明がつく>

 亡くなった人はもう動けませんので、言い換えれば将来を奪われます。


 もしも生きていれば出会えた人と出会えなくなります。

 もしも生きていれば体験できた感動を味わえなくなります。


これらの

「可能性を奪われることが死特有の悪なのではないか?」

との考え方です。


 それなら今までの例の説明もつきますよね?


 麻酔の中、痛みも苦しみもなく、亡くなっても未来の可能性は奪われていますので悪です。


 冷凍保存で宇宙に旅立つのも、200年後に復帰するのと、目の前で即死するのとでは未来の可能性の有無の差があるので、説明がつきます。


 どうでしょうか?

 とてもスッキリと晴れ晴れした気分ではありませんか?


 今までモヤモヤしていた

「死の何が悪いの?」

がハッキリ明瞭になったのですから。



<将来の可能性を奪われる存在>

 では、この

《将来の可能性を奪うことが死の悪い部分》

に対する違和感はないでしょうか?


 実はあるんです。

 今の清々しい感じを奪って申し訳ありませんが。


 もし、死の悪の部分が

《将来の可能性を奪うこと》

だとするなら、この世の中には死の悲しみが天文学的数字で溢れることになるんです。


 そうです。

 卵子の数と精子の数全て分の悲しみです。


 そのほとんどが死滅していきます。

 そしてこれらにも将来の可能性はありました。


 そのほとんどは毎月の排卵で死滅します。

 そのほとんどは受精することなく死滅します。


 これらも将来の可能性が奪われています。

 本の著者シェリー先生が概算で、この将来の可能性を奪われた悲しみの数を計算しました。


 1世代だけで概ね30溝(こう)人分だそうです。

 数字で表すなら

 3000000000000000000000000000000000人分

の将来の可能性が奪われているようです。

※ 一、十、千、万、億、兆、京、垓、秭、穣、溝


 たったの一世代でこれだけの将来の可能性が奪われています。

 今まで人類は誕生してから何世代分生きているのでしょうか?


 それを考えると、数字の単位の最大値である無量大数でも計算しきれないほどの数字になります。



<将来の可能性を奪っても悲しくはない>

《死特有の悪は将来の可能性を奪うこと》

だとすると、それら全てにおいて死特有の悲しみを味わっている事になります。


 しかし、貴方は毎月排卵の度に、人が亡くなるほどの悲しみを抱えていますか?


「私の卵子の将来が、可能性が」

と毎月立ち直れないくらい強い悲しみに暮れていますか?


 絶対にそのような人がいないとは言いませんが、ほとんどの人はそんなことはありませんよね?


 周期を調べて

「もうすぐだ。嫌だなぁ」

「ちょっとトイレに行ってきます」

くらいなモノですよね?


 とすると、

《将来の可能性を奪うこと》

も死特有の悲しみと考えるには少し違和感が残ります。



<喪失>

 実はこの違和感を説明するモノがあります。


 それが

《喪失》

です。


 人の死と、生前の卵子・精子との決定的な違いは喪失があるか、ないかです。


 受精せず消滅していく無数の卵子・精子はまだ人として存在していないので喪失がありません。


 一方の人の死には喪失が伴います。


 つまり、人の死の悪い部分とは

《喪失を伴い、将来の可能性を奪うこと》

 この考えが一番シックリくるように感じる。


 しかし残念なことに、これにも違和感・・・と言うよりも矛盾が存在しています。


 もっとも、そこまで行くと死生観と言うよりも

《答えの見つからない哲学の領域》

に入って行くので、本記事では省略します。


 そんな哲学的な深い考察の世界が

「面白い!」

と感じられる貴方は是非この本を手に取ってみて下さい。

死とは何か



最後に

 今回例示した死生観としての考え方

◎、痛い・苦しい

◎、永遠の別れ

◎、周囲が悲しむ

◎、喪失を伴う、将来の可能性を奪う

 全部死生観としては有りだと思います。


 介護職員として、

「もう死んでしまいたい」

と訴えかけてくるご利用者に対して、どれか一つ深く・優れた、死生観を持つことが重要なわけではありません。


 深く優れた考えを一つ持っていることよりも、複数の様々な死生観を持っている方が適切に応じることが出来ます。


 と言うのも、ご利用者によってどの程度の答えや考えを求めているのかが違うからです。


「もう死んでしまいたい」

と言葉で言っていてもその裏にある本心は毎回違い得ます。


「お腹空いたのに、ご飯をくれない。だから頂戴」

くらいの時も有ります。


「体が痛くて薬もすぐに効いてこない。早く薬効いてこい!」

くらいの時も有ります。


「死ぬのが身近に迫っているのを感じる。怖い」

と言う時も有ります。


「ご飯をくれ!くれないと死んじゃうぞ!」

くらいの感情の人に対して

「死ぬと言うことは、貴方の将来の可能性を・・・」

なんて言うことが適切だと思いますか?


 このように必ずしも深く考えられた死生観が万能で、どんなケースにでも対応できるわけではないんです。


 高齢者だと宗教を信仰している人も多くいます。

 その宗教に沿った死生観じゃなければ

「ふざけるな!何も知らない若造が!」

と怒りを覚えさせることにもなり得ます。


 天国と地獄と言う観点も宗教によるものですよね。

 では

「天国とは何ですか?地獄とは何ですか?」


 それも知らないで宗教を信仰している高齢者に対して

「死んでも天国に行けますよ」

なんて安易な事を言ったら

「何も知らない奴が天国を語るな!」

となってしまいます。


 このように様々な

「もう死んでしまいたい」

があるので、介護職員は一つの死生観ではなく、様々な死生観を持つ必要があると私は考えます。


 その死生観を支える考え方として

「生きている状態とは何ですか?」

も考えましょう。

 それはこちらの記事です。



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